ジネット・ヌヴー


ジネット・ヌヴー

ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu 1919年8月11日生)
 [フランス・ヴァイオリニスト]


 母がヴァイオリン教師、父もアマチュアながらヴァイオリンを嗜む音楽一家に生まれた。ひとつ年上の兄ジャンはピアニスト。母の手ほどきにより幼少時より才能を発揮し、7歳でブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリのサル・ガヴォーで奏いた。1930年、11歳でパリ音楽院に入りナディア・ブーランジェに学んだ。翌1931年、11歳のヌヴーはウィーンでのコンクールに参加し、高名なヴァイオリニストのカール・フレッシュ教授にその才能を見出された。フレッシュはヌヴーの両親に手紙を送ってヌヴーを直ちにベルリンに留学させるように勧めたが、家庭が裕福でなかったことから留学が実現するまで2年を要した。13歳になったヌヴーはようやくベルリンにやって来て改めて演奏を披露することになるが、それを聴いたフレッシュは「あなたは天から贈り物を授かって生まれてきた人だ。私はそれに手を触れてあれこれしたくはない。私に出来るのは、いくらかの純粋に技術上の助言くらいだ」とこう感想を述べたという。

 ヌヴーはフレッシュの指導を4年にわたって受け、1935年に15歳でワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し、180名の競争相手を破って優勝した。このコンテストでは、後にヴァイオリニストとして大成することになる当時26歳のダヴィッド・オイストラフが2位で入賞している。一躍スターとなったヌヴーは、ヴァイオリニストとしてのキャリアの最初に、ハンブルクでブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した。その後、第二次世界大戦が勃発する1939年9月までの間に、ヌヴーはドイツ、ソ連、アメリカ、カナダで演奏した。

 ヌヴーは第二次世界大戦の間は演奏活動を中断していたが、フランスに平和が戻ると演奏活動を再開した。ピアノ伴奏は、兄ジャンが務めた。ヌヴーは1945年から1946年にかけ、フランスとイギリスの間を何度も行き来して演奏会や録音を行った。1945年11月から、英EMIとの本格的な録音をスタートし、シベリウスとブラームスのヴァイオリン協奏曲をはじめ、CD換算で3枚分のスタジオ録音を翌1946年の8月までに行った。1946年から1947年にかけて南北アメリカを演奏旅行し、次いで欧州各地で演奏した。1948年にはオーストラリア・アメリカで演奏旅行を行った。1949年にはエディンバラ国際フェスティバル(8月〜9月)に出演し、イギリスの各地で演奏した。

 1949年10月20日のパリでのリサイタルが、ヌヴーの最後の演奏会となる。1週間後の10月27日、兄ジャンと共にエールフランスのロッキード コンステレーション L-749機に搭乗し、三度目のアメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエールフランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサー、マルセル・セルダンも同乗していた。しかし、同機はアゾレス諸島の主島であるサンミゲル島の山中に墜落し、乗員と48人の乗客は全員死亡した(ロッキード コンステレーション L-749機墜落事故)。ヌヴーの遺体は、発見された時に愛器ストラディヴァリウスを両腕に抱え込むようにしていたと伝えられる。

 ヌヴーの遺体はパリに運ばれ、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓のすぐ近くに葬られた。フランス政府からレジオンドヌール勲章が授与された。ヌヴーは、30歳での事故死により短いキャリアを終えたが、今なお世界的な大ヴァイオリニストのひとりとして語り継がれている。遺された音源は、モノラル録音ながらも生前の演奏風景を鮮明に伝えており、濃密でたくましい情感、雄渾多感な表現、非の打ち所のない音色のつやが特徴的である。ヌヴーはフランス人ながらもとりわけブラームスを得意としており、死の前年の1948年5月、28歳の時にハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団と共演した協奏曲のライヴ録音は、深い精神力を感じさせる解釈と鬼気迫る表現の激しさによって、他の追随を許さない。

 1949年10月27日死去(享年30)


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