難波大助


難波大助

難波大助(なんばだいすけ 1899年11月7日生)
 [社会運動家]


 難波は山口県の名家に生まれた。難波の父・作之進は庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。優秀な兄二人に比べ幾分見劣りしていたせいもあってか、厳格な父にやや差別して育てられ、少年時代はおとなしく、むしろおびえているように見えた。徳山中学(山口県立徳山高等学校の前身)時代は父・作之進の影響を強く受けた皇室中心主義者であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていたが、中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際に強制的に沿道に整列させられたことに憤慨し、思想的な変化が芽生えたという。鴻城中学でも学ぶが、中退した。1919年に予備校に通うため上京し、四谷に居住することになった。貧民窟として知られる鮫ヶ橋(現東京都新宿区若葉三丁目)の側ということもあり、それらの実情を目の当たりにしたことや河上肇の『断片』などを読み、次第に社会に対しての私憤を募らせていった。大逆事件に関する裁判記事なども読み漁っていたという。この頃に参加した社会主義同盟の講演会において、警官の横暴を目撃したことがテロリストになる転機となった。1922年、難波は早稲田第一高等学院に入学したが1年で退学した。難波は日雇労働者として生活していく中で、労働運動や社会主義運動にも触れ、共産主義の暴力革命に染まっていった。一時は個人的テロよりも労働者の団結を重視しはじめたが、関東大震災において、大杉栄などの社会主義者などが殺された甘粕事件や、労働者運動を弾圧した亀戸事件などに衝撃を受け、その憤慨をプロレタリアの皇室崇拝の念を打破するための皇室へのテロという形で発散させることを思い立つ。テロの目標は脳病で執務能力を失った大正天皇より、摂政宮の裕仁親王がよいと考えるようになった。

 かつて羊のようだった難波は、虎のごとく変貌し、何をやるかわからぬ人間として父や兄を脅迫し、ふてぶてしく金をせびり、彼らを戦慄させた。難波は関東大震災を前後し、しばしば山口へ帰省している。古くから家にあった仕込み型のステッキ散弾銃を入手し、これで皇室に対するテロの実行を決意した。なお、難波が使用されたこのステッキ銃は伊藤博文がロンドンで購入したものが人を介する形で難波の父・作之進に渡ったものと言われている。実行に際し狂人扱いされることを避けるため、新聞社などにテロ決行と共産主義者であることを伝える趣意書を送付し、友人には累が及ばないように絶交状を送付した。1923年12月27日、難波は虎ノ門で摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子の御召自動車に、ステッキ仕込み式の散弾銃で近接狙撃した。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った。難波は「革命万歳」と叫び逃走を図るも激昂した周囲の群衆の暴行を受け、警備の警官に取り押さえられ現行犯で逮捕された。事件の後、第2次山本内閣は責任を取り総辞職し、関係諸官は処罰された。その中には警視庁の警務部長だった正力松太郎もいた。父・作之進は事件当日に衆議院議員を辞職した。一流企業のエリートコースにあった兄も退職した。故郷の難波家には日夜怒号と石つぶてがふりかかった。獄中の難波は、父に手紙を送った。「聞けばあなたは食事も碌に取れず、精神に異常を呈するほどやつれて居る由。これを 聞いてさえ私は冷然として涙一滴落とさない」以下難波は、自分を差別し、人間を差別している父を弾劾した。
 
 この当時、大逆罪は初めから大審院で審理された。難波を精神病患者とすることは不可能であったため、政府や検察は「自己の行為が誤りであったと陳述させ、裁判長は難波の改悛の情を認めたうえで死刑の判決を下すが、摂政の計らいにより死一等を減じ無期懲役とする」ことが天皇の権威を回復するための最も良い手段であると判断し、そのように動いた。予審は長引いたが、難波が反省陳述することをようやく認めたため1924年10月1日に傍聴禁止の措置が取られた上での公判が開かれた。だが、難波はこの審理の最終陳述で反省陳述を行わず次のように述べた。「私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。」これを受けて大審院は11月13日、難波に死刑を宣告せざるを得なくなった。その際、難波は「日本無産労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インターナショナル万歳」と三唱して周囲を狼狽させた。難波の処刑は15日に市ヶ谷刑務所内で執行された。死刑宣告後、かくも迅速に刑が執行された例は、あとにもさきにもない。明治の大逆事件でさえ、執行は宣告後6日目であった。

 父・作之進が遺体の引き取りを拒んだため、無縁仏として埋葬された。その際、難波の遺体を引き取りに出向いた自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検挙された。息子の死刑執行後、作之進は山口の自邸の門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくり閉門蟄居して断食し、半年後に餓死した。後年、ある裁判官は「何十年かの司法官生活中、取り扱った被告は無数であるが、その中で難波大助ほどしっかりした人間は見たことがない」と述懐している。

 1924年11月15日死去(享年25)


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